「私と香港」
私と香港の出会い、それは人生の大事な宝物。
私と香港の出会い
香港に恋に落ちた。としか言えない
私が香港に初めて降り立ったのは16歳だった。2002年だったかな。同じ2002年に短期留学でカナダに行き、現地で香港人の友人ができた。バンクーバなど、中国系移民が多くて「ここはアジアか!?」と錯覚するくらいアジア人の多いカナダ。ところが私が留学したノーバスコーシャ州はほとんどアジア人のいない地域だった。ノーバスコーシャのカナダ人はとても優しくて、小さな田舎町のわりにとても心を広く接してくれたなと記憶に残っている。しかし当時、ホームシックにかかった私は、韓国人や台湾人、香港人などのアジア人に慰めてもらって心がとても落ち着いたものだった。「アジア」を強く意識し始めたのもこれがきっかけ。
「香港」ってなんか魅力的
香港の事はなんにも知らなかったけれど、小さいころから「香港」と聞くと"紅、水の上に船があって、チャイナドレスの綺麗な人が団扇を仰いでいる"みたいなものが頭に浮かんできた。その理由は、全くわからない。中国大陸には興味はないけど、香港とか上海はいつか行ってみたいな~と漠然と考えていた。香港と聞くと頭に浮かぶ"紅い"煙のようなもの、これはなんか惹かれるものがあった。
そして、2002年のクリスマスに友人を頼りに香港に遊びに行くことになった。
香港に降り立った瞬間「なにここ!!」それはそれは強烈な衝撃に、もうその時から香港に恋に落ちてしまった、としか表現のしようがない。青衣の橋を渡っている時に目に映ったのが、漢字の書かれた青いトラックに小太りの油ギッシュなおじさんがランニングシャツで乗っていた。どこかノスタルジーを感じてしまい、ただただトラックを視界の全てに入れながら、おじさんを目で追った。
返還後数年しかたっていなかった香港は、それはそれはエネルギッシュだった。みんな笑っているし、高級ホテルの元には、おじさんが露店の夜店を開いているし、自由でセクシーで刹那的な香港の虜になってしまった。
まだまだ香港が日本がかっこよくて、最先端だと追いかけていた時代。日本人だと言うだけで、なんかモテモテだった。
今は無き、あの香港
あれから17年くらい経ったけど、今の香港は日本なんて全く追いかけていない。微妙な韓国ブームが終わりつつ?あったり、日本製の食品や物は信頼が厚いけど、日本ってむしろ遅れている感がある。あの頃の、香港人の刹那的な飢えた雰囲気もなくなったし、あ〜、やっぱり私は昔の香港に色気を感じるよ。
あの頃に戻ってとは思わないけど、あの頃を知っていることが宝物。
返還前後を知っている人は、本当に羨ましい。
↑大好き!!
香港のことばかり考える毎日
2002年、クリスマスの香港旅行から帰国してから、もう頭の中は香港が占めていた。毎日毎日瞼の裏に香港を写して寝た。夢でも見るし、起きても香港。香港が私を支えてきたくらい。彼氏に「俺と香港どっちが大事なんだ」とか言われる始末。
刹那を教えてくれた香港
高校生は、未来にひたすら夢を抱いていた時期だったのもあり、今より未来に生きていた。思春期特有の悩みをたくさん抱えていた私には、今を大事にする方法がわからなかった。毎日なんとなく物足りなくて、なんとなく居心地が悪かった。そんな時に「一週間後の事はわからない、3ヶ月後のことなんてもっとわからない、今が大事、今を生きる」と誰もが言っていた「香港」が強烈にかっこよくて納得ができた。それから、高校生の私は、恰好をつけて「刹那主義」を座右の名に毎日を過ごすようになった。「今が楽しければいい」そんな生き方にこだわるようになった。
その頃から、ウォンカーウェイの映画にハマり、どの映画を観ても「飢えていて、貪欲で、でも絶望的な生き様」に人間臭さを覚えた。「満ち足りて、平和で、でも思うように夢を描けない日本」で過ごす私には、無いものだった。
同じところに留まらない香港、"みんな一緒"じゃない香港人に、生き方を教わったのだ。
↑私の知らない激動の時代の香港を知れる本
あの時、香港と出会っていなかったらと思うと、とても怖い。
「いまでもあなたを想っています。この気持ち、永遠の宝物」というフレーズがいい!!
高度成長期とバブリーを体感する
生まれた頃には日本は成長しきっていて、失われた30年間を生きてきた。
人々が向上してより良い生活を望み、文化が生まれ、仕事に遊びに謳歌できた時代が心底羨ましい。私は、自分が見れなかった激動の時代を、香港や中国など近隣諸国で味わいたいのだ。
足るを知り、有るものに感謝して悟りをひらいた日本では少し刺激が少ないのだ。
香港マニアだ
香港が好きなことは、私自身を語る上で大変重要なもの。いつも心を落ち着かせてくれて、満たしてくれて「香港の地面にキスしたい!」が私の衝動!