【香港で葬儀に参列】仏教式の葬儀、はじめての出来事
先日香港人の友人の葬儀に参列してきました。
あまりにも突然のことでショックが大きく、数日泣き腫らしていました。
癌サバイバーである私は、人よりも死を考えていた。
死が身近にあった。
誰よりも死を思い、生きていたと思った。
それなのに、やはりこの日常はその生活は永遠に続くものだと奪われないものだと信じきっていたこともわかった。
子育てで頭の中も体も一杯一杯で過ごしていると、日々の有り難みは忘れてしまう。
どんなに怒っても疲れても、1日を振り返っているとやはり今日を平和に安全に健康に終えられたことに感謝するし、明日もそんな当たり前に過ごせると信じきっている。
そんな日々に私は彼と出会った。
娘が小学生になって一番最初にお友達になった子のお父さんだった。
小学生に上がる前月の夏休みのプログラムでお友達になる彼女は怖くてママにしがみついていた。
そんな中、プログラムが終わるとうちの娘にくっついて彼女は降りてきた。
その後も何度も愛おしそうに彼女は娘を抱きしめた。
うちの娘が一日その子を励ましていたらしい。
だからか、その後もその子の両親からは感謝のような眼差しをずっと向けられていた。
学校がない日、一度だけ遊んだ。
公園に行って飲茶をした。
お父さんはご馳走してくれた。
よくあるやり取りの「うちが払う、いやいや、うちが払う」みたいなことをして
「あなたたち家族には感謝しているの」とご馳走様していただいた。
ママもとても愉快な人でおちゃらけて会話をした。
その後また遊ぶ機会はなかったけど、宿題の場所がわからない時に教えてもらったり、娘の誕生日にはドレスをプレゼントしてくれたり、お迎えの時に顔を合わせた。
なんであの時、もっと顔を見なかったのだろう。
なんであの時、もっと笑いかけなかったのだろう。
なんであの時、もっと会話をしなかったのだろう。
今更そんなことを考えてもどうにもならないが、それが永遠に続くと信じきっていたから。
こんなに可愛い小さな娘たちがいるのに、
こんなに明るい奥さんがいるのに、
あなたを必要としている、大切に思っている人がいるのに
なぜ急に一瞬で生活から消えてしまうのか。
私は一人で泣いて泣いて泣いた。
信じられなかった。
しかも、娘さんが具合が悪くて看病をするねと付き添った日のことだったらしい。
熱が出ているのは聞いていて、しかもWhatsappに「キツイよー」とか「会いたいよー」と音声メッセージが何通か来ていたから、具合が悪かったのも知っていた。
具合が悪かったのは子ども達で、パパはなんともなかったのに。
お母さんが娘の具合はどうかな?と見に行ったら、お父さんの方がもう息をしていなかったそうだ。
私の母は、5歳の頃父親を亡くしている。
祖母は女手一つで姉妹を育てた。
お嬢様育ちだったにも関わらず、魚商をしたり小さな商店を開いて生き抜いた。
あの時代、父親がいない人は珍しかったためそれが理由に理不尽なことがたくさんあったらしい。
だから、母には「父親を失う」というトラウマがあった。
誰にでも幼少期の出来事で決して譲れない自分だけのルールやトラウマがあると思うが、それが母にとっては「一家の父親がいなくなる」ことだった。
私の父は今も生きている。
普通に仕事をしてきたが、私が幼い頃から父が亡くなるかもしれないと母は思っていて、フルタイムの仕事をやめられなかった。
食べるためとか、裕福になるとかではなく、たとえ父がいなくなっても一人で大学まで出せるようにという意味で働いていた。
よくその話を聞いていたから、私にはトラウマは全くないものの、母と共有していた恐怖を人一倍知っていた。
だから、今回娘のお友達のパパが亡くなったことは、身近な人が亡くなったという悲しみの上に、あの姉妹は、あの母親はどうやって生きていくのか、そちらに思いが強かった。
幼い子や愛する妻を残して先に逝く無念もそうだし、私の母が父親のことを覚えていないように、お友達のパパが娘たちを可愛がって一緒に遊ぶ姿や奥さんと仲良く接する姿は記憶に残らないのではないか、色々考えてとても悲しかった。
涙が止まらなかった時にお友達のママに
「泣かないで。あの人は楽しいことが好きだった。だからあの人を思い出すなら、楽しいことを思い出して。泣き顔は決して綺麗じゃないというと思う。だから泣かないで」
と言われた。
なんで励まさないといけない、これからお友達も支えていかないといけないのに、私が慰められているんだ、と情けなく思った。
香港は小さな町であるため、葬儀はすぐに行わない。
1ヶ月後に葬儀が執り行われた。
ホンハムに葬儀場が多くある。
その一つの会館で行われた。
仏教やキリスト、または拜神の3つの宗教が多いようだ。
お友達のパパは仏教だった。
私は特に信じている宗教はなく、家に仏壇がありご先祖さまにはお線香で手を合わせ神社にも行きお寺にも行き、観音様にも行き、クリスマスも祝う典型的な日本人だ。
会場に行くと、すでにお経がはじまっていた。
日本のように一人のお坊さんが低い声で経を読み、ズーンと暗い葬儀ではなかった。
一番明るい袈裟をつけたお坊さんが中心に座り、周りには茶褐色のシンプルな法衣を着た人たちが10人ほどいて皆で読んでいた、
抑揚のない一定のお経ではなく、歌のようだった。
腹から声を出して上を向く人もいた。
その間に、お友達のママに耳打ちをする人もいて、耳打ちをされる度にお友達のママは深くお辞儀をしていた。
お友達のママもそんなことははじめてだと思う。
時々手で目をぬぐいながら何度もお辞儀をしていた。
お経が終わるまでは手を合わせることができず、入口の外で待っていた。
隣では拜神の葬儀が行われていて、中華の独特の衣装に小さなシャンシャンとなる中国の太鼓のようなシンバルのようなものをリズミカルに叩きながら踊っていた。
読経が終わり、参列者がお線香をあげる時になった。
広東語なので理解はできなかったが、一礼、二礼、三礼、喪主のお友達ママに一礼、と周りと合わせた。
その後長いお線香が配られて、一人ずつお焼香をした。
両手でお線香を持ち頭の上で三度お辞儀をして、お線香を鉢に。
仏教だったので、私はその後に手を合わせてしっかりとサヨウナラをした。
香港の葬儀は、亡くなって数日後ではないため、遺族も親戚も友人も少し気持ちが落ち着いた頃にできるのだと感じた。
香港の葬儀は、悲しみにくれるというよりも、生きたことを讃え天国に送る儀式のように感じた。
私も香港で葬儀をされてもいいと思った。
飾られたお友達パパの笑顔に、なぜそこにあなたがいるのかと思ったし、亡くなったことを理解して自分の中でしっかりと受け止めることもできた。
お友達姉妹は無邪気にお菓子を食べながらいた。
母が言っていたように、父親の葬儀にはたくさん人が来て楽しくてはしゃいでて、それを見て周りの涙を誘ったということを思い出した。
香港で何気なく出会った家庭。
私の心にこんなにもあるとは思っていなかった。
日々、関わってくれる全ての人を大切にしよう。
会話しよう。
笑顔でいよう。
そう思った。
生きていることは当たり前じゃないし、いつ失ってもおかしくないのだ。
お友達のママがこれらからもあの明るい笑顔で生きていけますように。
姉妹たちがお父さんの愛を忘れることなく生きますように。
これからもずっとその家族を支えて生きます。