香港でマルチリンガル育児→改め完全帰国Life

海外経験から完全帰国した3児母マリーの日記


香港マニアで永久居民に
夢だった子育てもして
日本に本帰国済み!
人生は「たのしく」がモットー

白花油
紫花油
福仔
均隆
心を落ち着かせる曲 香港 病院
24時間 香港 病院 救急外来
子宮頸がん検診 香港 病院
香港 病院比較 公立 私立 クリニック

お正月休みの出来事で育児を思い直した

育児は、客観的になることが難しく、子供の命を守る意味でも子供の未来を守る意味でも妥協ができず、負のループに孤独に陥ってしまう時があります。

親になってもまだ四年生。思い描いていた子育てとのギャップや、母親になって初めて気づく自分の性格に戸惑うこともあります。

子供のこともまだよくわからない自分。性格なのか、はたまた月齢特有のものなのか、夫婦で変化を共有しながら頻繁に対応を修正している手探り状態。

日々悩みはあるけれど、いつの間にかこの変化に安心し、新たな悩みができる感じです。その時々、真剣なんだけどね。こんな日々もいつかは忘れていい思い出しか残らなくなっているんだろう。

 

今回お正月の親戚の集まりで、色々と気付くことがありました。

自分の子育てを思い返していました。

 

自分と子供は別人格であり、全くの他人を育てているという自覚はあったつもりでした。でも、無理な我が儘を言われている時などに「なんであなたはこんな態度をとるのか」とか「なんでこういう考えで動くんだ」と完全な自分の物差しで考えでしまっていました。しかも、年齢も無視して。

そして、普通の育児本に載っているようなやってはいけないこと、言ってはいけないことも私はしていました。

「ママ行っちゃうよ」とか「もうしらない!」とか散々。

「ある対応をしたら、こんな子になる」とか育児本に書いているもの以外も、自分で考えた「絶対にやりたくないこと」を常に意識してきたのに。

私が感情的になればなるほど、子供にも悪影響なのに何故意識しても改められないのだろう。

 

生き生きと自分の世界を大切に、明るく生きて欲しいと思っているのに、私が変わらなければ子供の芽を潰してしまうのではないか、性格を悪くしてしまうのではないか、と不安になってしまいます。

 

私は母と仲良しです。

ずっとお母さん子で、子供も時はお母さん命。

母が常にどんな状態か気になっていました。

だからその基準で、娘が私を困らせることを言えば「何故あなたは母親を困らせることを言うのか、私はそんなこと絶対にしない!」と拒否反応がでてしまうと気づきました。その上「何てこの子は人の気持ちを考えられないのか」「性格が悪いのではないか」と嫌悪感が出てしまうんです。

娘のいろんなことを無視して。

 

私には無いもの、度胸だとかフレンドリーさ、勇気や明るさは「なんてこの子はいいところをもっているのだろう、私にはないものを持っていて羨ましいくらい」と都合よく思っている。

 

できることには全く目を向けず、できないことばかり問題視する自分。

しかも、それがとてもちっぽけだったりする。

 

母に「なんでそんな完璧を求めるの、まだ4歳よ?厳し過ぎる。可哀想」と言われました。

 

私だったら、こんな母親嫌いになってしまうかも。

でも「だって、それくらい酷いじゃない。なんでこんな我が儘なの」と反論してしまう。

 

客観的に我が子を見るとすごく可愛いんですよね。

それが、夫を通した子供。

夫も感情的になってイライラしていたりすると、それも客観視できるんです。

「何そんな怒ってるの?」とか「厳しすぎだよ!」とか思うんです苦笑

ああ、自分ってああいっているんだなぁと気づける。

「なんて可愛いことを言っているんだろう」と微笑ましくも眺められる。

 

結果、育児は夫婦でするもんだなーと。

ジジババにはできない役目もあるし、ジジババじゃ頼めないことも多いと思いました。

そして、人の子供ってなんて余裕で見れるんだろう、と。

「自分ならこれは無理だ」と思うこともあるし「この我が儘ってお母さんが好きでやっているんだろうな」とかなんの疑いもなく思えたりする。だけど、自分の子はそんな呑気に育児していられないのが現実。

 

ただ、最近やっと思えるようになったことがあります。

この時期はほんの一瞬で終わるから、どんなにキツくても大丈夫、と。

子供のその表現は二度と巻き戻すことができない、と。

嬉しくも寂しくも、懐かしむ時はすぐ先の未来。

 

その間に、ゆっくり老いるだけの自分たちが、どれだけ子の毒にならずに変化できるかが自分の重要課題であります。

 

子は、私ではない。

「人の気持ちを考えろ」という私が一番、子供の気持ちを考えていないのだから。

 

そんな私の目にさっき飛び込んだ言葉。

 

「何を話すかが知性、何を話さないかが品性」